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  • 執筆者の写真健太郎 新部

【孤独について】

老子や荘子のコトバを出すまでもなく、東洋はながらくコトバと云うモノに根元的な不信を抱いて来た。例えば易経の繋辞伝にある「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」などはその典型。


また、通俗的仏教理解に至っては、言語認識の領域を存在世界へまで押し広げ、全ては「空」であり、また「無」であるとまで云ってしまう。

しかしながら、先ほどの同易経には「聖人は(中略)辞(コトバ)をかけて吉凶を明らかにす」などともあり、また仏教思想のひとつである密教に至っては、「真言」というような特殊な言語領域を設けて、コトバと云うモノの存在を擁護しようと試みる。


してみると、やはり人間はコトバなくしてコミュニケートすることも能わない、それも事実だと思う。


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「言語不信」とまで云い切らないまでも、コトバにはいくつかの性質がある、と思う。それは咀嚼すれば、以前用いた「牛」と「花」のたとえを以て説明できる。


まずは「牛」。


二人の人間が牛という存在を前に、「牛」という言語記号を用いてコミュニケートする。しかしながらひとりはヒンドゥー教徒であり、その「牛」という言語は「聖獣」を意味し、またいまひとりは美食家であり、その「牛」という言語は「美食」の対象を意味している。


両者とも「牛」という言語記号を用いて、牛という存在を賛美するも、お互いは一向にわかり合えない、という話し。


これは云いかえれば、「花」というモノをたとえにすることもできる。


「花」という一語に、私たちは自身の花の体験を投影する。それは寒月の明かりに照らされた白梅の花であるかも知れず、またそれは手折られた一輪の朝顔であるかも知れない。


しかしながらそれら花の体験を、「花」という言語記号にのせて対話者へ伝えた途端、それらは自身の記憶の断片にある白梅でも、朝顔でもない「花」として、ある種の「一般性」お帯びた記号としての「花」となる。


この「一般性」という謂いでの「花」とは、私とあなたの間にある「花」のことであり、それは私という「主観」から離れた、「客観」性としての「花」のこと。


また、私の中にある「主観」的体験としての白梅や朝顔は、「一般性」に対して「特殊性」を帯びた「花」のことであり、コトバとは、この「一般性」と「特殊性」と云うモノを、同時に担っている、と思う。


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話しはかわり、禅家の老師が、弟子の悟り(云いかえれば内的な特殊体験)の境涯を試すため、杖を高々と振り上げる。弟子に対して「これは何か?」さあ言ってみろと迫る。


それをただ「杖」と云えば、社会的文化的に共有される杖の「一般性」を示したにすぎず、弟子の内的体験は老師へと伝わらない。しかしながら「杖ならぬモノ」と云ってしまっても、それはただ杖の社会的文化的文脈を打ち消したにすぎず、自身の内的体験の「特殊性」は伝わらない。


臨済録や無門関によく見る、こうした禅の師家達のコトバのやり取りに、私はコミュニケートすることの本質的問題をみる。


お互いにわかり合うためには、コトバと云うモノの「一般性」という性質を用いるほかなく、しかしながら「一般性」だけが往きかうコトバの応酬に、人間は自分の内なる体験を誰とも共有できない「孤独」を感じて見たりもする。いわばそれが、東洋における「言語不信」の意味。


また人間は相手をよく知りたいとも思う。しかしながら対話者の発する言葉を、どこまでも「一般性」のレベルだけで理解し、また批判し続けてみても、相手の用いるコトバの「特殊性」は見えてこない。それゆえに問われる側だけが自身の「特殊性」を開示してみても、コミュニケートは成立せず、ひるがえって「問う」側も、「一般性」という言語の呪縛から自身を開示しなければならない。


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さらに老子のコトバに、以下のようなモノがある。


「常有は以て其の徼(きょう)を観んと欲し、

 常無は以て其の妙を観んと欲す」


幾つかの意訳が可能だと思うが、「有」とは「一般性」のことであり、その「徼(きょう)」を観るとは共通する「カタチ」を観ようとする心のはたらき。また「無」とは「一般性」ならざるモノであり、それは「特殊性」と云うことであって、その「妙」を観るとは、相手のうつりゆくカタチならざる内面を捉えようとする心のはたらき。人間にはその両方が必要だと云うこと。 


そして老子はその「一般性」と「特殊性」の交錯するあわいに、真に人間の実存があると云い、それを「玄牝」と云った。また仏教的コンテクストに於いては、それを「真空妙有」と云う。


云いかえれば東洋の哲人とは、存在論的にも言語論的にも、以上の意味で云う「一般性」と「特殊性」の両方を同時に生きられる人間のこと。それは老子的言語におき直せば、「常有」でもなく「常無」にも偏らない、刻一刻と変化する人間である。


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以上この文章は、東洋というコンテクストからみたコトバと云うモノの性質を介して、人間存在の「孤独」について考えてみようとした。


近代は「批判精神」を重視することで大いに発展した、と思う。しかしながらひるがえって、そのような形で構築された「自我」は、根源的「孤独」に陥った、とも云える。


むろん東洋精神にも「孤独」はある、と思う。それはいかに東洋の哲人と云えど、日常を生きていると云うこと。云いかえれば、それは「一般性」を生きているとも云える。しかしながら卓越した哲人の慧眼は、「一般性」と「特殊性」の交錯するあわいにこそ、真に人間の実存があると信じる。そう信じる時、人間の「孤独」は、ある種独自な自在なる精神へと変容することができる。


その精神とは、近代「自我」の云う「特殊性」としての「個性」へも執着せず、また近代「社会」がもとめる「一般性」としての「没個性」へも拘泥されない。真に「自遊」を生きる精神である、と思う。 



おしまい

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